「神仏の心を動かすくらいの深い信仰心があれば、すべての願いが叶う」と水野南北は言います。
しかし、ただ祈っても神には通じません。
また、神仏に供えるための食物を特別に用意する必要はありません。
形式的な行為にすぎないからです。
どのようにすれば神仏の心を動かすことができるのか、南北の主張を見てみましょう。
食事の量を減らす
(修身録二巻)
神はどこにでもいる。
あなたが願うもの、すべてが神である。
あなたの真心が神に通じれば、願いはすべて叶うだろう。
しかし千日千夜祈っても、そこに実がなければ神明には通じない。
もし実をもって祈ろうと思うなら、自分の命を神に献じ奉ることだ。
食は命を養う本である。
飲食を献ずることは、自分の命を献ずるのと同じである。
いつも三椀なら二椀食べて、一椀を神に献じ奉りなさい。
別に椀を用意する必要はない。
毎日お膳に向かい、自分が信じる神仏を心に思い、「三椀の食から一椀を献じ奉ります」と祈りなさい。
それから二椀を食べる。
一椀は神がすぐに受け取ってくださる。
神は正直な人の頭に宿り給う。
濁ったものは受け取ってくださらない。
自分が十分に食べて、それとは別に神においしいものを献じても、神はこれを喜ばない。
自分が食べる分から献ずる心を受け取ってくださる。
三つあるものを二つ食べて、「もう一つ食べたい」と思っても、食べないで神に献じ奉り、肉食に限らず、食物はすべてこのように献じ奉るなら、いろいろな願いが叶うだろう。
小さな願いは一年、または三年。
名声を得るには十年。
このようにして神仏に祈るなら、願いは必ず叶うだろう。
本当の陰徳
(修身録二巻)
少しで良いからお椀の底に残して、自分が信じる神仏に捧げなさい。
そして生あるものに施しをしなさい。
それは大きな陰徳であり、心がこもっている。
神仏は喜ばれる。
たとえそれが肉であっても、穢れ・不浄だと嫌われることはない。
心を受け取ってくださる。
お椀に残した一口を食べたところで、何の益があると言うのか。
それを施すことは大きな慈悲である。
しかし別に食物を用意して施せば、それは罪である。
自分が食べる分から施すことが本当の陰徳である。
自分で祈らなくても心があれば、神は守ってくださる。
また心のある人は一回の食事も半椀は慎んで施しなさい。
さらに半椀の半椀を慎む時は、内臓は楽で気分も良く、病気とは無縁である。
そのように三度の食事を慎むなら、一日に一合分の陰徳を積み、一年では三斗六升、十年で三石六斗、自分で天の禄を増やす。
それによって立身出世ができる。
ひたすら自分から徳を積まないと、天から徳がやって来ることはない。
(注)
10合=1升=1800ml
10升=1斗=18リットル=15kg
10斗=1石=150kg(1人分の年間消費量)
神仏は心を見ている
自分がお腹いっぱい食べて、それとは別に神仏に供えても神は喜びません。
いつもお腹いっぱい食べる人は、精神が乱れています。(濁った心)
その状態で神仏に祈っても、神仏の心を動かすことはできないのです。
食事の量を減らして、その分を神仏に献ずる行為。
それこそが本当の陰徳である、と南北は言います。
そしてその心を神仏は喜んで受け取り、その対価として願いを叶えてくれます。
参考文献
(訳)玉井禮一郎「食は運命を左右する」たまいらぼ/1984年
水野南北「開運の極意」
若井朝彦「江戸時代の小食主義」花伝社/2018年