【水野南北】観相法の極意は自分の慎みにある

座禅

水野南北は相者であるにもかかわらず、人相を占ってもらうことを人にすすめませんでした。

吉凶の結果によって、人の心は揺れ動いてしまうからです。

南北の発言には、みんなに良い人生を送って欲しい、という気持ちが込められています。

私が南北を好きなのは、占いに惑わされる人間の弱さに理解を示した上で、自ら厳しく慎むことにより手本を示したからです。

南北は行動の人でした。

だからこそ時代をこえて、もがき悩む人の心を打つのだと思います。

悩みながら人生を生きているすべての人に、南北の覚悟を知って欲しいです。

世の人に手本を示す

(修身録一巻自序)

富貴か貧賤か、長寿か短命か、貧困か安楽か、また立身出世・発展などはすべて飲食を慎むか否かによって決まるのであり、私の願いは世の人々がこの書を読んで食を慎んでくださることにある。

私は節食法を人にすすめるために、生涯米も餅も食べず、一日に麦一合五勺だけとし、酒は大好きだがこれも一日一合と決めた。

これは自分のためだけではなく、世の人に飲食を慎むことの手本を示すためである。

人相を占ってもらってはいけない

(修身録二巻)

「占い師には良い人相だと言われるのに、現状は貧困にあえいでいる」人に対する南北の答え

相の本質は真心にある。

あなたは心が誠実でないから、良い人相も悪い相に変わるのだ。

相は生き物である。

良い人相の人がみんな幸せだというのなら、相は死んだ物であって無価値である。

良い人相でも、慎みが無ければ悪い人相に変わる。

ゆえに相を生き物というのだ。

これが相法の尊いところだ。

もし貧乏・凶の人相でも、慎んでいれば次第に裕福の相になる。

その人が実際どういう人なのかによって変わってくるのだ。

また富貴の人相でも、誠実でなければ刑罰に処せられる人さえいる。

こうしたことはすべてその人の心の中がどうなっているかによって変わってくる。

ゆえに私が相法によって吉凶を占うことは少ない。

天下の明徳を説き、心身を治めることに専念している。

吉相と言われたら、それに驕って徳を失ってしまう。

凶相と言われたら、落ち込んで意欲を失ってしまう。

それが小人物の常である。

また大人物だとしても、吉相と言われたらうきうきして調子にのってしまうものだ。

ゆえに相者に吉凶を占ってもらってはいけない。

ただ相者に身を治める方法・家の中をととのえる方法だけを教えてもらいなさい。

相者は自分を極悪貧困の相と決めて覚悟し、ひたすら慎みに専念して天地に徳を積みなさい。

これを続けることができれば、貧乏・凶の人相でも裕福の相に変わる。

最も大切なのは天地に徳を積むことなのだ。

人を占うこと=自分の慎み

(修身録四巻)

「観相法の極意」を問う人に対する南北の答え

食事の内容によって判断するだけだ。

観相学の本を研究しても無駄である。

相の吉凶を正しく知りたいなら、いつも私が言うように、まず自分自身が飲食を慎み、あらゆる無駄をなくし、そうして三年続けたならば、必ずや相法の極意を知るであろう。

私はいつもこのことを実行して、天が与える吉凶を自分で体験してから、皆の人相を判断している。

これが占いの正道である。

これをしない者に、どうして吉凶があるのか、わかるはずもない。

人を占うことは、自分を慎むことと同じなのだ。

観相法の極意

(修身録四巻)

私の観相法における極意は、文章に書くのが難しい。

(中略)

それを知りたい人は、腹八分で満足し、自分が万物を使うことの本当の意味を知り、その関係性を明らかにしなさい。

そうすれば私の観相法は免許皆伝であり、その極意を知るだろう。

私の観相法においては、このほかには何もない。

自分で「食の慎み」を実行する

人の人相を占う前に、まず自分に食の慎み・倹約を課しているところに南北の偉大さがあります。

これは占いに限った話ではありません。

他人の言動に対して何か思うこと・言いたいことがある時、私は南北の言葉を思い出して自分を振り返るようにしています。

「人を占うことは、自分を慎むことと同じである」

参考文献

(訳)玉井禮一郎「食は運命を左右する」たまいらぼ/1984年

水野南北「開運の極意」

若井朝彦「江戸時代の小食主義」花伝社/2018年