【法則】願望を持つなら「尊い」ものを選ぶ

愛かお金か

理想と現実の乖離に悩む方に向けた記事です。

私はずっと「理想の人生を生きられたら、毎日楽しいだろうな」と思っていました。

人間関係に恵まれ(現実を見ろ)、容姿端麗で(現実を)、頭が良くて何でもできて(現実)、大金持ちで(現)、素敵な旦那さんとの結婚生活()。

RPGで例えるなら、1周目で獲得したアイテム・スキル全部持って2周目突入という人生。

2周目的人生が現実になったら、私はどういう行動をして、何を選ぶだろう。

この記事を読んでくれるあなたに質問します。

願いが全部叶った後、あなたは何を願いますか。

【目次】

  1. 「自分が幸せならそれでいい」は不幸
  2. 自分が「愛」そのものだったら、何を願うのか
  3. 他人の幸せを願う人間を、世界は応援する
  4. 今日をちゃんと生きる

「自分が幸せならそれでいい」は不幸

自分の幸せ

普通、願望は個人的なものが多いです。

幸せの範囲は「自分」、「他人」は範囲外。

そういう願いごとは、自分の経験上、妙な焦りがあります。

なかなか叶わないと、「どうせ叶うわけない」という絶望感が少しずつ澱のようにたまっていきます。

願いが一つ叶っても、他にもたくさん願望があって、どこまで叶えたら楽になれるのか全然予想がつきません。

人間というものは、放っておいたら願うようにできてるのかもしれません。

「先天性叶えたい病」とか、「願いごと症候群」みたいな病気。

人生はRPG、私は勇者

そして色々な失敗を経験して、いつの頃からか、「自分が幸せなら、それでいい」というのは不幸なことだなと思うようになりました。

自分の幸せに固執すると、手に入れたものを失いたくないし、体に力が入ります。

「叶わなかったらどうしよう」「失ったらどうしよう」という考えが、頭と心の容量を無駄に食ってる感じ。

頭と心の片隅にそういう重荷が存在しているから、小さな幸せがあっても気づかないし体験から逃げる逃げる。

現実というRPGを人間は勇者として戦いながら生きてる(体験し、向き合う・受け入れる)のに、目の前の戦闘(体験)に集中できないのって、不幸なことです。

戦闘が終了するとアイテムを獲得したり、敵が仲間になったりしますけど、それはきちんと「たたかう」を選択したから。

戦闘(体験)に対して「逃げる」(他人のせいにするとか)を選択したら、その時は楽だけど何も得ないです。

逃げてばっかりの勇者(過去の私)は、クリアする気があるのでしょうか?

でも精神的な余裕がないと、逃げたくなるよね。

仕方ないことってあるよね。

と、自分を慰める。

自分が「愛」そのものだったら、何を願うのか

それで私は、たぶん苦しさから逃れるために、無意識に幸せの対象の範囲を広げていたのです。

気づいたら願いの種類が、他人を幸せにする・喜ばせるということにシフトしていました。

意識して変わったわけじゃなくて、いつのまにかそうなっていたのです。

三日坊主だけど、セドナとか瞑想とかいろいろやったのが、ちりも積もって山となったのか。

飽きっぽいくせに願望を叶えたがる人(過去の私)は、叶えようとすると苦しいから、みんなで幸せになろう的な願いごとをしたり、心を浄化する方法を試すと楽になれるかも。

普通の人も、「願いがすべて叶ったら、その後で自分は何を願うのか」「自分が愛そのものだったら、何を願うのか」を考えてみたら、トンネルの中に出口を見つけることができます。

他人の幸せを願う人間を、世界は応援する

「自分が幸せならそれでいい」人は、自由なのに不自由

今の私としては、「量産型願望実現」(たくさん願い、なんでもかんでも叶えようとする)はエネルギー的な危険を伴うのでやめた方が良いという考えです。

この世界においては、願いを叶えるには対価(エネルギー)が必要なので、叶っても叶わなくてもどうでも良いことを願うのは、エネルギーの無駄遣いです。

また、何を願うかは人間の自由ですが、どうせ願うなら「自分の幸せ」が「他人の幸せ」につながっていくこと・自分と他人をまとめて幸せにすることを願った方が良いです。

人間に自由意志があると言っても、「自分が良ければそれで良い」人と「人の役に立ちたい」と考える人とでは、その自由意志を行使できる範囲に大きな違いが出ます。

世界は「調和」を志向するので、自分のことだけ考える人を世界はサポートしません。

世界を構成する要素からのサポートの流れが生まれませんから、自分の努力だけが頼りです。

そういう人は「自分は自由だ」と思いつつも、その実、不自由を生きているのです。

他者への奉仕

もしも「本当の自分」として生きる人間が、「世界が望むこと」に本質的に合致した願望を持つなら、遠からずその願いは叶います。

世界が望むこととは、他者への奉仕です。

世界は「調和」を目指すものであり、調和は「自分を自分以外の人・物のために役立てる」行為によって増加します。

世界が望むのは、自分の正当な取り分を捨て、見返りを求めずに「人の役に立つ」ことです。

そのような願いが誰かの心に生じた時、その願いは必ず叶います。

世界の構成要素たちがその願いの実現を望み、サポートの流れが生まれます。

その流れは止められません。

堅忍不抜の精神・行動力・世界からのサポートがあるのに、実現しない方がおかしいのです。

誘惑の中で生きる・願う

他者への奉仕は、この世界においては難しいことかもしれません。

自分の利益のために他人が損をしても良いという考えの人・会社も存在しますし、誘惑が多すぎます。

だけれども、できる範囲で良いので良いものを他人と分かち合ってみてください。

そしてもし願うなら、叶った後でもあなたの中の思いやり・寛容・真摯・強さ・慈悲深さ等の善良な部分が維持されるようなことを願ってください。

叶った時にそれらの善良な部分が失われるようなことは、願わない方が良いです。

小さな願いを叶えるのは簡単ですが、失われた分の善良さを回復するのは非常に困難だからです。

善良さはあなたの拠り所であり、良いものを独り占めするという考えは、まったくおすすめできません。

今日をちゃんと生きる

つらつら理想論を語ってまいりました。

読んでくれたあなたは、こう思っているでしょう。

「えらそうなこと書いてるけど、この人(私、白衣のこと)はどうなの?」

その気持ち、よくわかります。

人生をわかってるようなこと言ってるのに、自分では実践しない人はいます。(評論家・政治家・宗教家・医者など)

今の私はできる範囲で行動していて、少しずつ良い流れができていることを体感しています。

でも、時々すっかり忘れていた願いが出てきます。

「きれいになりたい」「遊んで暮らしたい」「人気者になりたい」

そう思ったら、セドナメソッドやホ・オポノポノで手放しています。

そういう願いに固執すると、自分の中の謙虚な部分が減ってしまいそうだから。

個人的な願望への執着がなくなって「なんかよくわからないけど、私って今すごく自由」と思っています。

過去の私は願望に囚われて生きて、牢獄みたいでした。

今の私にも願いはあるのですが、「絶対叶う」と信じているので流れに任せています。

朝、目が覚めて思うこと。

「とりあえず今日をちゃんと生きよう」