他人の問題への無理解は、自分に戻ってくる

剣

他人の問題には、基本的に首をつっこまない主義です。

他人に助言したくないし、他人の噂・過去もどうでもいい人間です。

誰かの人生に何かが起きた時、それを乗り越える・それに立ち向かうのはその人自身の役割です。

問題が起きたのはその人の人生であって、私の人生ではないです。

でも、そう考えるのは他人への無理解からではありません。

その人の中に確かにある、「揺るぎない強さ」を信じるからです。

謙虚さを失うくらいなら人間やめたい

成功した人間には人が寄っていきます。

失敗した人間からは人が離れます。

この世界では、古代よりそういう事象が何度も繰り返し発現しています。

安全を確保したい人間の本能・「寄らば大樹の陰」的思考、これは人間なら誰にでもあるものです。

もちろん私にもあります。

だけど、私は自分の中のそういう部分に流されたくないです。

誰かが失敗した時にそれを笑ったり、相手を「失敗した人」と評価する人間になるくらいなら、私は人間をやめたいです。

なぜならそれは傲慢であり、謙虚さのかけらもない行為だからです。

誰かが弱くなった時こそ、その人の強さを信じる

人間には色々な部分があります。

誰かが強いなら、同じ分だけ弱さがあります。

優しい人には、同じ分だけ冷たさがあります。

思いやりがある人には、同じ分だけ自分勝手な部分があります。

だから、人間の性格なんてその時その時で変わります。

順調な時は、誰でも強さ・やさしさ・思いやりを発揮できます。

だから、他人の人生が順調で幸せいっぱいの時は、私はけっこう離れた所にいて自分のことをやっていたいです。

無関心モード全開で。

「それは良かったね」くらいは、心の中で思うかも。

でも、つらい時・苦しい時ってその人の弱さが出てきやすいです。

だから、誰かが弱くなった時にこそ、その人を信じます。

その人の中にはちゃんと強さがあって、それが発揮されることを信じます。

そういう時は、その人とちょっとだけ距離を縮めて(けっこう離れた所から見守るイメージ)、経過観察モードに入ります。

他人に対して敬意を差し出す

他人は他人、自分は自分です。

何でもかんでも他人に関わっていたら、自分の時間・心の余裕がなくなります。

だけれども、他人の問題に対して無理解を差し出したくはないです。

他人への無理解は、自分に戻ってきます。

自分の中の傲慢さが増えて、謙虚さが減ります。

その人の努力・行動・姿勢、そういうものに敬意を差し出したいです。

悩み・苦しみを通して、人はある才能を手にし、それを強化していきます。

それは「人の心の痛みがわかる」という才能です。

そして苦しい時に逃げ出さないで立ち向かうと、その人の内部では強さが育ちます。

「揺るぎない強さ」は、人生の拠り所となります。

誰かの中にあるその強さを、私は信じる人でいたいです。